星新一「壁の穴」 〜35年前に予言されたSNSの問題〜

 星新一さんの代表作と言えば、「おーいでてこーい」や「殺し屋ですのよ」、「ボッコちゃん」や「午後の恐竜」などがある。これらは英語の教科書に載ったり、世にも奇妙な物語NHKのアニメで映像化されている。今回紹介する「壁の穴」はこれらに比べ少しマイナーであるが、星新一さんらしい心踊るSF描写とゾッとする現代への皮肉が混じり合った作品なので是非紹介したい。

 

あらすじ

 主人公の青年は地味で平凡な毎日を過ごす。そのくせ、内気な性格で刺激を積極的に求めようとはしない。そんな彼のもとに一本のナイフが現れる。そのナイフの面はゆるい彎曲を帯びていた。彼はそのナイフを隣の部屋との壁に突き刺してみる。するとナイフは簡単に突き刺さり、その湾曲に沿いくるりと一回転した。そして30センチほどの穴が開いたのだ。その穴を恐る恐る覗いてみると、隣の部屋とは全く違った光景がそこにはあった。広く豪華な部屋に上品な家具が置かれ、高い天井からはシャンデリアがぶら下がっていた。恐らく17世紀のヨーロッパであろう、風にたなびくカーテンからは青い海が見えた。

 彼は初めは驚いたものの壁の穴から覗く世界に魅了されていく。天井に穴をあければそこには広大な宇宙が広がり、窓ガラスに穴をあければ未来の社会があった。あるときには太古の地球の姿があり、恐竜がのどかな夕暮れを過ごしていた。

 この遊びは彼を捉えて離さなかった。そして彼は穴の向こうの世界に行きたいと思い、それを試みた。しかし、壁の穴は彼を押し返し、受け入れようとはしない。彼は穴から覗くことしかできないのだ。

 あるとき、穴のむこうの世界はどこかの南の島だった。ヤシの木の葉が風に揺れ、波はおだやかに浜に寄せ、少し離れて若い男女が…。彼は穴をふさいだ。見てはいけないと反省したからではなく、自分との現状の差に不快になったからだ。穴の向こうの生き生きとした世界に比べ、部屋にはがらんとした空気と自分ひとりがいた。

 彼は穴を覗くことによって退屈な日常をまぎらわし、穴は不満のはけ口になっていた。だが、同時に、これによって不満がさらに高められもした。穴の向こうの世界は皆生気に溢れている。それなのにこちら側の世界は干からび、ぐったりとしてるのだ。

 穴の向こうの世界が自分に向かって、あざけり気の毒がり、軽蔑しているように感じた。彼は自分のいる現在の空間が他から取り残され、みじめで悲しい気分になった。

 彼はどうにかしてむこうの世界に行きたいと試みたが、叶わなかった。そして彼はナイフを自分の胸に突き刺した。痛みはなく、死も訪れない。ただナイフが胸の穴へと消えていったのだ。

 そしてあの楽しく、悲しく、みじめな遊びは二度とできなくなった。天井も壁も窓も、なにごともなかったようにそしらぬ顔をして彼をとりかこんでいるだけなのだ。

 

感想

 私は中学生の頃に、この作品を初めて読んだ。穴から覗く様々な世界の描写に心とらわれた。距離も時間も離れた世界を覗くことの出来る穴があったらなあと思ったものだ。しかし、しばらくしてそれはインターネットではないかと気がついた、モニターという穴から離れた世界を覗くことの出来ると。この作品は1972年に発売されている。インターネットの歴史を調べてみると、どうやらこの時代ではまだ研究段階であり、実用化はされていなかった。いくら星新一さんが理系出身と言えども、こんな未来を予言し物語を書くとは驚きである。

 しかし、穴を覗いている自分がみじめになるとはどういうことだろう。当時の私には分からなかった。いくらモニターの向こうが生き生きした世界を映していようと、自分には関係ない。それは遠くの世界であるから。距離や時間だけではなく、有名人の活躍など、人間関係として遠く離れた世界であるから自分には関係のないのだ。だから今の自分の環境と比べることもせず、みじめな気持ちにならないのだろう。

 そんな当時から約10年が経ち、再びこの作品を読んでみた。この10年間で社会は大きく変化した。特にインターネットに関わる部分は到底想像も出来ない変化をした。一人ひとりがスマホを持ち、個人として簡単に情報が発信できる。そしてSNSという文化も生まれた。LINEやTwitterInstagramを初め様々なSNSが存在する。しかし、今このSNSから問題が生じている。いわゆるSNS疲れだ。この問題からInstagramインスタ映え問題について考えてみる。本来Instagramは自身が行った観光地やレストランの料理などを共有するものであり、それらが素晴らしかった結果インスタ映えするのである。だがこの因果が逆転しつつある。それはインスタ映えの為にわざわざ有名なスポットに出向いたり、食べ物であれば味など二の次で、大きくカラフルな食べ物を求めるといった逆転現象だ。そしていつしかインスタ映えしない写真でなければ共有できないと思い、結果疲れてしまう。しかし、Instagramによる問題はこれだけではないと再び「壁の穴」を読んで気づいた。それはInstagramを見るものに生じる問題である。

 Instagramを見てみじめな気持ちになったことはないだろうか。週末にInstagramを覗けば友人が飲みに行った写真や、旅行に行った写真が上がっている。そんな生き生きとした友人に比べ、自分は部屋でひとり暇を持て余している。この落差がみじめになる。これがもし、相手が有名人ならこんな気持ちにはならないだろう。別荘に旅行する姿を見ようが、一等地のレストランで食事をする姿を見ようが、自分には遠くの世界であり関係ないと思える。しかし友人という半ば近い存在であるがゆえに、自分と比べみじめな気持ちになってしまう。また自分が生き生きとした経験をしているとき、友人の投稿を見る機会はない。そんなことをせず、自分が楽しむことに夢中であろう。そうであるからInstagramを覗くときは自分が暇であるときが多い。そうであるから常に自分が下にいて落差を感じるのだ。これがInstagramを観るものに生じる問題であると私は考える。

 「壁の穴」での予言はこのSNSを観る側に生じる問題ではないだろうか。スマホがナイフであり、壁の穴がSNSだ。部屋でひとりの青年はこのナイフを使い、いとも簡単に穴をあけ、生気を帯びた世界を覗く。しかし、その穴をふさげば、そこには部屋にいるさみしい青年ひとりなのだ。そして向こうの世界との落差にみじめさを感じてしまう。

 星新一さんはインターネットの登場という技術的な目線だけでなく、それを利用した文化、そしてそこに生じる人間の問題まで予言していたのではないだろうか。